2005年、日本競馬界に“衝撃”をもたらした一頭のサラブレッドがいました。
その名は、ディープインパクト。
圧倒的な末脚と異次元のレース内容で、デビューから無敗で三冠馬に。さらに種牡馬としても数々の名馬を世に送り出し、日本競馬に多大な影響を残しました。
この記事では、そんな“競馬史を変えた馬”ディープインパクトの生涯をたどります。
日本競馬界に現れた“衝撃”のデビュー
名血を引くサラブレッドの誕生
ディープインパクトは2002年、北海道のノーザンファームで生まれました。父はサンデーサイレンス、母はウインドインハーヘアという世界的良血。特に母系には欧州の名馬が並び、名実ともに“世界を狙える器”として注目を集めていました。
調教を担当した関係者からは、早くから「今までのどの馬とも違う」という声があがっていたと言います。
新馬戦から見せた“次元の違う走り”
2004年12月、阪神競馬場で迎えたデビュー戦。直線で他馬をごぼう抜きにし、最後は流すようにゴール。観客からは「何だこの馬は?」という驚きの声が上がりました。
のちに実況アナウンサーが繰り返すことになる「まさに衝撃!」という表現。その片鱗は、すでにこの新馬戦から現れていたのです。
2戦目は年明けの若駒ステークス。
スタートに難があるディープは後方からレースを進めますが、前の2頭が大きく飛ばす展開で4コーナーでも先頭の差は10馬身ほどあり、先行馬が残ってもおかしくない流れでした。
ところが、ディープは直線に入ると異次元の末脚を繰り出し、「あっ」という間に差し切ったうえに5馬身もの着差を付けてゴール。
この時点で、三冠は確実とまで言われるようになりました。
無敗で駆け抜けた三冠ロード
皐月賞での「大外一気」
2005年のクラシック第一戦・皐月賞。外枠からのスタートで落馬直前になるほど躓き、かなり不利な状況をものとものせず、4角で大外を回っての豪脚一閃。
このレースでは気を抜く素振りを見せたディープに初めて鞭が使用されるも、2着に2馬身半差を付けてゴール。スタートでのアクシデントを考えると、まさに完勝。
レース後、鞍上の武豊は「走っているより飛んでいる感じ」とインタビューで答えました。
ダービーで見せた圧倒的な独走劇
東京優駿(日本ダービー)では、さらに強さが際立つことに。
圧倒的一番人気に支持されたディープ、対戦済みの馬とは勝負付けが済んだと思われ、二番人気にはまだ対戦経験のないインティライミが支持されます。
レースでは相変わらず後方から進めるディープに、好位の内々を追走するインティライミ。直線を向くとロスなく運んだインティライミが満を持して先頭に立ち、後続を突き放す…その中でただ一頭、大外を駆け上がってくるのがディープインパクト。
皐月賞に続く衝撃の末脚で、5馬身差の圧勝劇を演じたディープインパクトは、三冠に挑むべく秋に備えます。
ちなみに、当時はホテルのバイトをしていた僕は、休憩時間にホテル内のテレビで観戦していたことを未だに覚えています。
菊花賞、そして完成された“究極の三冠馬”
秋の始動戦、神戸新聞杯を危なげなく快勝し迎えた菊花賞。
シンボリルドルフ以来、史上二頭目の無敗の三冠馬誕生を間近で見るため、競馬場の入口には入場開始前から駅まで続く行列が…その中の一人に、僕もいたのは言うまでもない。
レースでは1周目の4コーナーで勝負所と勘違いしたディープが自らスピードを上げ、鞍上が必死になだめるシーンに場内が騒然。
どうにか折り合いをつけ最後の直線を迎えるも、仕事人・横山典弘が手綱を取るアドマイヤジャパンが好意追走から完璧なレース運びで抜け出し、残り300mでも余力十分に先頭を走ります。
アドマイヤジャパンの手応えの良さに一瞬、「負けるかも!?」と思ったのは僕だけではなかったのではないでしょうか。
ところが、徐々に差を詰め残り150mほどで並ぶと、最後は2馬身の差を付けてゴール。史上6頭目、無敗での制覇は史上2頭目という快挙を達成したのでした。
世界を目指した凱旋門賞の挑戦
遠征前の期待と熱狂
2006年、4歳となったディープインパクトは、阪神大賞典・天皇賞(春)・宝塚記念とすべて圧勝。
とくに天皇賞は長距離レースでは見たこともないロングスパートをかけ、4角先頭でそのまま押し切り、レコードのおまけ付きという圧巻のレース。
そして秋には日本競馬の悲願・凱旋門賞(仏GⅠ)に挑むことになります。国内では圧倒的な存在感を放っていた彼に、世界を制するという夢を託すファンも多く、日本中が期待に包まれました。
前代未聞の“失格”とその波紋
ディープなら日本の馬による凱旋門賞制覇も夢ではない。むしろ、この馬より強い馬がいるのか?
当時は多くの競馬ファンが、ディープの凱旋門賞制覇を信じていたでしょう。
レースでは欧州特有のスローペースになり、ディープは押し出されるように先頭へ。これまでは後方からしかレースをしたことがないだけに、見ているこっちはヒヤヒヤしたものです。
先頭のまま直線に向き、解説の岡部幸雄氏の「まだ、まだまだ!」と心の声がダダ漏れのなか、ディープはラストスパートをかけ必死に先頭を走ります。
が、やはり欧州の芝は日本よりもスタミナの消費が激しいのか、ディープでさえも余力がなくなり、地元の3歳馬レイルリンクの3着に敗れてしまいます。
なお、後に禁止薬物使用による失格処分が下されますが、さすがに陣営にとっても予想外だったでしょう。とはいえ、故意ではないのは明らかですし、ディープの評価を下げるものにはなりません。
ラストランと“完結した物語”
有馬記念、武豊と共に最後の走りへ
帰国後、ジャパンカップを快勝し、引退レースとして出走したのが有馬記念。1番人気に支持されたディープは、これまでと変わらぬ末脚で快勝。圧巻のパフォーマンスで、有終の美を飾りました。
鞍上の武豊騎手は、レース後「生涯最高のレースができた」とコメント。その表情には、深い感謝と別れの寂しさがにじんでいました。
種牡馬としての“第二の伝説”
次々と生まれるGⅠ馬たち
引退後は社台スタリオンステーションで種牡馬入り。ジェンティルドンナ、キズナ、サトノダイヤモンドなど、国内外で活躍する産駒を次々と輩出しました。
国内外で評価される“ディープの血”
日本だけでなく、海外でも産駒が活躍。特にフランスのGⅠレースで産駒が勝利したことは、かつて自らが成し得なかった「世界制覇」への、間接的なリベンジとも言えるものでした。
日本の競馬を一変させたと言われる大種牡馬、サンデーサイレンスに優るとも劣らない活躍を見せたディープインパクトの血は、今や“世界に通用するブランド”として確立されています。
2020年の死去と後世への影響
順調な種牡馬生活を送っていましたが2019年に不調をきたし、ディープインパクトは頸椎骨折により安楽死の処分が取られることに。競馬ファンだけでなく、多くの関係者が深い悲しみに包まれました。
しかし彼の血は、今も競馬場のあちこちで息づいています。ディープ産駒、そして孫世代へと、その才能は脈々と受け継がれているのです。
まとめ|なぜディープインパクトは伝説になったのか?
ディープインパクトが「伝説」として語られる理由は、単なる勝利数や記録ではありません。
その走りは“絵になる”ものであり、観る者すべてに感情を揺さぶる力がありました。圧倒的な強さ、三冠という偉業、そして日本競馬を世界へと開いた存在感。
競馬を知らない人ですら、その名前を聞けば「すごい馬なんでしょ?」と分かる——そんな数少ない存在こそが、ディープインパクトという馬だったのです。
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